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Essay:Dial M

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vol.37 WHITE JACK

Nov 2004

そもそものきっかけはこうだ。
読売テレビの実力プロデューサーS氏は、『名探偵コナン』や『犬夜叉』といった人気アニメを手掛けてきたが、実は大の手塚治虫ファンであった。
氏の夢は、いつかテレビで『ブラック・ジャック』のアニメを放送することであり、十数年前から幾度も企画を立ち上げては、進展なく終わっていた。
しかし昨今の医療ドラマ人気 -まあ、それだって『ブラック・ジャック』の影響がないわけではないだろうが -に裏打ちされて機が熟し、いよいよやってみようじゃないか、という向きになって、手塚プロダクションに具体的な話が持ちかけられた。

一方、2003年は『鉄腕アトム』誕生という一大イベントの陰に、『ブラック・ジャック』も連載開始30年であり、ささやかに特集本の出版などが企画されていた。
そんなこともあって、ぼくは予てより考えていた“実写による”劇場映画の『ブラック・ジャック』の企画を進めてみた。
話を持ちかけた映画会社やスポンサーも興味を持ち、話は前向きに進み、後は時期を待つのみという段になって、テレビ・アニメの監督をやらないか、と打診されたのだった。
えっ実写劇映画の企画中にアニメなんて、と一瞬は想ったが、ひとつやるのもふたつも同じことだ、といつもの悪いクセで、時期さえズラせば可能だろうと、ふたつ返事で引き受けてしまった。
それが昨年末に放送された、2時間の『ブラック・ジャック・スペシャル』だ。

これはもちろんシリーズ化を前提としたテストケースで、一種のパイロット番組だったが、いくつかの課題があった。
ひとつは、実際に『ブラック・ジャック』の表現がゴールデンタイムのテレビ番組として可能か否か。端的にいえば、原作にある刺激的な手術シーンや残酷な描写をどうすればよいのか。
もうひとつは一話完結というスタイルで、1回30分(実質20分強)の番組として成立するかどうか。
さらにいえば、良質なアニメ製作をモットーとする手塚プロダクションが、テレビの平均的な予算でシリーズ製作が可能かどうか、という点も局側の判断材料として欠かせないものだった。(そしてぼくにテレビ・アニメが監督できるかどうか)
平たくいえば、かなり厳しい制約の中で、歴史的な人気漫画をファミリー向きの人気アニメにせよ、というハードルの高い仕事なのだ。
しかし、それがこの仕事を引き受けた最大の理由だ。
挑戦しがいのない仕事なら、自分がやる必要がないではないか。
結果そのスペシャルは、出来映えは30点くらいだったが、まあ悪くない視聴率を取った。それよりも視聴者に概ね好評であり、局としては好印象を得て(なんか局内の賞を獲ったらしい)、同じコンセプトでシリーズ化に踏み切ったというワケだ。

もちろん好評であったというのは結果に過ぎないが、内容面では十分計画したことではある。
「原作の物語をできるだけ尊重する」「手塚治虫の絵に少しでも近付ける」「血を見せない」「子供が入り込みやすいキャラクター設定を用意する」といったルールを作り、可能な限り行った結果である。
その上で各話の演出家には自由度を与え、あまり厳しい縛りをせずにのびのびと作ってもらった。
当然、原作の熱烈なファンからは否定的な意見が出るだろうことは覚悟していた。
どう作っても原作の絵とは異なるし、物語も原作のままというわけにはいかない。
漫画として自然な表現が、アニメとして自然とは限らないからだ。
というより、そもそも漫画とアニメはどちらも絵だというだけで、まったく違う表現だと言っていい。
漫画には“コマ”があり、抽象性も高く、形式や表現には相当な自由がある。
一方アニメは動き、色、音などが加わった結果として現実性が増し、かえって表現が制約されてしまう。
たとえば手塚漫画の絵は輪郭線だけでも十分に表現されているが、そのままアニメにすれば平面性が強調されて、たちまち絵に深みがなくなる。そこで影をつけるなどして立体的に見せなければならない。
そもそも漫画がひとりの創作で行えるのに対して、テレビ・アニメは完全に多人数の共同作業、しかも役割分担されて作り出される。ひとりのアーティストの“作品”にはなり得ないのだ。
手塚治虫本人がそれは一番認識していたのだろう。
だから自分で監督はあまりやらなかった。
そして漫画とは異なる“テレビ・アニメ”という世界を作り上げたのだ。
当時からそれに大きな抵抗があったことも事実だ。
かつての『鉄腕アトム』や『ジャングル大帝』ですら、「原作と違う」「キャラクターが似ていない」「絵が汚い」「動きが粗末だ」などなど、散々な文句を付けられたものだ。厳しい条件でうまくできないのなら、アニメになんかしなければいいのに。
しかし大事なことは、テレビで放送することで子供たちや多くの人々がその作品に接する機会が圧倒的に増え、結果として原作はエバーグリーンになったということである。
手塚漫画の思想やテーマもまた、技術を超えたところで多くの人に伝わった。
だから、今回もその方針でやってみる。
原作の“絵”から離れて、アニメに必要な表現や物語を付加させた。
もちろんそれでいて原作の持ち味を完全に消さないようにしなければならない。
そのバランスは微妙であり、そこがこの仕事のキモだという気がする。
何よりファンの目線で考えず、子供の目線を意識するように心がけている。

「血を見せない」
これは午後7時という時間帯への配慮だ。
食事中の家庭だってたくさんあるだろう。
「血」が流れない手術場面なんか意味ない、という人もいるとは思うが、要は物語が伝わればいいのである。
勘違いされるのだが、これはテレビ局側の制約ではない。
あくまで監督のぼくが作ったルールなのだ。

「メスで切る描写がない」
大人ならともかく、まだ分別のつかない子供は人気アニメの主人公の真似をする。これは絶対にしたがる。もし子供が家にあったナイフを使って「ブラック・ジャックごっこ」をやったら、どうなるか。友達や兄弟の身体を傷つけないとは言い切れない。だから手術場面があったとしても、メスで身体を切る具体的な描写は避けている。
同様に、暴力的な描写は全般的に控え目にしてある。「いまのアニメでは平気で行われる」ことが必ずしも良いこととは限らないので。

「必ずピノコが登場する」
Sプロデューサーの希望でもあったが、ぼくの考えでもあり、最初に意見が一致した点。このシリーズおけるピノコは単なる賑やかしの脇役ではなく、視聴者である子供の目線と立場を代表する存在だ。子供はピノコから感情移入して、ブラック・ジャックの行為を知る。ブラック・ジャックを“大人”として描くための機能なのである。シャラクや和登さんの存在も同様。
なぜシャラクなのか、なぜその姉が和登さんなのか、理由を聞かないで欲しい。自然にそう思いついたのだから。
そして動物のキャラクターも欲しくて、原作の中からラルゴを見つけた。もっとも、デザインは何度も描き直された末に、原作とはかなり変えられたが。

「なぜ話を変えるのか」
いくつか理由があるが、漫画で省略された部分を説明しないと物語が不明確になる場合、時代が変わりあまりにレトロになってしまった部分、子供の目線を作る必要、分別のない子供たちが誤解を招かないようにする必要、などの理由がある。
原作をただアニメにすると、10分で片付いてしまう話もある。そこから展開が必要だ。
「お父さんの偉大な作品をアニメ化するお気持ちは?」
特別な感慨などはない。
あくまでこれは依頼された仕事で、自分に課せられている機能だ。
手塚治虫だからハードルが高いのではない。
子供とファミリーを意識したアニメだから難しいのだと理解している。

最後に蛇足でひと言。
個人的にこのようなテレビ・アニメは好きか? と聞かれたら、返答に窮す。
もし完全にぼくの趣味だけで作ったなら、少なくともこのような番組にはならないだろう。そしてそんな番組があっても、視聴率は獲れないと確信する。

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